2014.08.25 民間伝承 交通,人々,俄然,前書き,北海道,半分,南会津,単純,商店街,場所,心地よい,感動,感覚,木古内,海岸,点,目線,看板,祖母,神秘的,福島県,結果,線,表情,装飾,観光地,質素,過程,重視,長万部,駐車場
北海道南部の木古内や長万部というのは、祖母の家がある福島県の南会津と似た表情を持っているように伺える。南会津には海岸こそないものの、その美しい山の連なりや装飾のない質素な商店街は歩いていても心地が良い。街のどこへ歩いても、耳をすませば波音が聞こえてきそうな、神秘的な一面を持っているような感覚である。
どこへいっても『観光地』という前書きがついてしまうと、それだけで人々は集まり、静けさは劣ってしまう。更には案内用の看板や交通の便がでたりと、その木古内や長万部のような質素感が妙な空気とともに風にさらわれていくのである。そのような意味で、本当に心地のよい場所というのは、単純にその場所が聖なるだけでは感じることが難しくなりつつあるようである。
そのような意味で、美しい場所というのはその点だけではなく、その前後に関わる点と点を結ぶ線の部分が非常に重要な役割を果たしているように思う。例えば神聖なる滝があったとする。その滝は誰がみても美しく、心が安らぐ場所なのである。しかしながら、その滝から少し目線を外すと、まわりの山々は観光客によるゴミや駐車場で溢れかえっている。ましてや、その行きの移動途中の風景や帰りの風景が、人工的な街並に溢れているとする。それでは、せっかくの美しい場所もピンポイントでの感動であり、旅全体の満足度としては半分、もしくは半分以下の満足度にまで陥る。
結果重視といえばそれまでであるが、私は俄然『過程』を尊重して生きることに趣を感じるわけで、これからもそうしていくつもりである。しかし最初に眺めるべきは点であり、また点である。そしてまた、新たな点をみつけ、ふと気持ちがかえったときに点と点を結ぶ線をたどっていくのである。
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