2014.09.04   民間伝承 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

忍耐と無神経の狭間で生成される心地よさという快楽の水準値。

きっと生物が求めていることの究極は、気持ちよさや心地よさといった快楽的な部分なのではなかろうか。それ故に、あるひとつの事象に対して今すぐにでもその心地よさを手に入れようとする者、何もせずに怠けることに快楽を求める者、忍耐や鍛錬を繰り返して将来的な心地よさを求めている者と、様々である。

そして、今という点と未来という点は必ず線でつながるものである。今を充実させる点、今を怠ける点、今を鍛錬する点、どの点も明日以降の点に必ず結びつく。すべてのおこないは点であり、怠けることが点にならないというそんな単純な減点方式ではないのである、すべてが加点だ。どんなことをしていようと、点は日々増えていき、線で結ばれていくのである。

忍耐というのも言葉にしてしまえば努力の賜物のように思える。しかしながら、生物はそれぞれに神経や感性の異なるものである。よって、誰かが忍耐だと捉えて必死になっている事象も、ある人にとったら『無神経』に、その事象をいとも簡単に流してしまうことができるのである。また、感情というのは環境や習慣によっていとも簡単に制御されがちであるので、ついさっきまで忍耐だと捉えていた者であっても、いつ『無神経』な感覚に陥るかはその環境や習慣だけが知っている。

少なくともあるひとつの事象に対する反応として、忍耐だと捉える者もあれば、無神経で関心を持たない者もいるということだ。そして、そのひとつの事象そのものもまた『点』として成立しているわけであり、私たちは日々そんな小さな点を自身の感覚によって大きくも小さくもしながら生きているのである。

どんなことをしようと、生成される点そのものはすべて同じである。その点を線で結んでみたときに小さく見えるか大きく見えるか、そしてその点が輝いてみえるか汚れたようにみえるのか。それは、自分にとっての心地よさの水準値なるものを感じることで形成されているようである。


槍の間合いもまだまだだな。