2014.08.10 民間伝承 一理,人類,制御,可能性,子孫,存在価値,寄生虫,思考,性衝動,意思,感情,感覚,振り子,昆虫,概念,求愛,理性,生物,発生,目標,繁殖,表現,言葉,調合,違和感,駆け引き,麻痺
人類には『言葉』と『理性』という、便利でありながらも非常に捉えにくいツールを持っている。意思の伝達における半分もしくはその半分前後の振り子を、その言葉と理性によって常に制御しながら思考や感情を表現しているのである。それゆえ、人類間に発生する人間関係というものは言葉と理性によってうまく調合されながら、なんとかきれいに収まるような駆け引きを日々繰り返しているような生物なのである。
おもしろいことは、人類が持つ昆虫や生物に対する存在価値とその概念だ。昆虫や生物が日々『子孫の繁栄』という、動物としての最終目標を達成する働き。人類にもまた同じように『繁殖』という活動はあるのだが、どうも人類からみた昆虫や生物に対する繁殖の姿勢というのは、あまりにも『動物的』すぎて、自らと同じ感覚と捉えることが難しい行動なのである。
それは一理に人類以外の昆虫や生物に『言葉』と『理性』がないからである。少なくも昆虫や人類以外の生物にも求愛の行動はあるが、そこに言葉の駆け引きのようなものは見受けられない。人類は繁殖という性衝動を『愛』や『平和』と語り、言葉という名の理性を巧みに活用しながら求愛を表現しているのである。
そのような意味では、たとえば人類に襲いかかって体内に毒を回す寄生虫がいたとする。そうすると、その寄生虫が大量に繁殖することは人類にとって非常に恐ろしいかもしれない。しかしながら、それらの寄生虫が『愛』や『平和』などを美しい言葉と文法によって巧みに表現してたら、ひょっとするとその寄生虫が繁殖していくことに、人類はなんの違和感を感じない可能性もあるわけである。言葉とその理性というのは、繁殖というひとつの性衝動を日々麻痺させているのである。人類における繁殖の極論とは、二面性における物語のコラージュである。
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