2015.01.06   民間伝承 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

ソクラテスの石膏像がニヤけてみえたので釈迦の教えを学び直す。

あたかも無とも捉えられることができる空間・場所であるのであれば、それがもっとも美しいものである。しかしながら、その無とも思えるような空間だけではどうしても伝わりきらないと分かったとき、初めてそこに点は生まれ、線が生まれるのである。

やがて、点や線が多様化され、より複雑になり、そればかりでは表現しきれないと感じたとき、初めて曲線が生まれ、色彩が生まれ、より一層の装飾を増していくのである。

そして、あまりにも華やかになりすぎたキャンパスはまた、無ともいえる白紙に戻り、質素なものを愛するのである。その繰り返しだ。バウハウスも、それだけの繰り返しではどうにもつまらないと、その流れに合理性や機能性を充実させていたのである。

時世もまた、平穏が点や線だとすれば、曲線や装飾のように戦争が生まれ、そして災害のごとく白紙へとまた戻るのである。

我々にはより多くの教養が情報として流れ、政治・経済・経営・哲学・芸術・スポーツ・音楽などありとあらゆる分野から感覚的に染みついていく。戦後のサブカルチャーによって、特に芸術や音楽といった分野からの刺激は一層強く、精神的なくつろぎを日々求めているのである。

そのようにして過去を振り返り、時に世界の哲学者の言葉を振り返ると実に趣深い言葉は多くあり、例え紀元前とはいえど、その言葉そのものは例えば昨日生み出されたものだと言ってもまったく違和感のないほど、言葉は新鮮である。

ソクラテスにプラトン、アリストテレス。当時の群衆が身体を鍛えていたときに、皮肉にも思考に思考を重ねて言葉を生み出していたのかと思うと、おかしなくらいにおもしろい。アジア系の私にとってはそれでも釈迦の言葉が一番身にしみるわけであるが、何より群衆が皆そろって身体を鍛えていた時代に、揚げ足をとった言葉を巧みに活用していたのかなと想像すると、あの厳つい像の表情もついついニヤけているように思えてしまうのだ。


槍の間合いもまだまだだな。