2014.12.03 民間伝承 フォント,体感,全体,制作,最終,泥沼,温度,生,着地点,瞬間,第三者,老眼,身体,近視
簡単なことである。私には小さくて薄いフォントの方が、全体を見渡したときに見やすいわけである。だから、老眼や近視となった見方をすることはできないし、想像をしてもしきれないのが立場だ。いずれわかることだろう。しかしながら、今このとき、ひとつのモノを制作するにあたって、もしくは命を吹き込むにあたって、自分がすっきりと終われないものに命は吹き込まれてなんか、いない。簡単なことだ。
最終的にそのモノをみるのは誰か、目的は何か。そのような煽りは、最終的な着地点であるように見せかけて、本当は底の深い、濁った泥沼である可能性も大いにある。第三者を考え、目的を見つめながら泥沼に足を踏み入れても、歩き疲れた足は底まで届かず、ただ濁った泥沼に身体を沈めていくだけなのである。
ある制作物を濁った泥沼だと捉えたときに着地点である底を辿ってばかりでは『泥沼を歩く』という誰もが想定のできることしかできない。泥沼の色みや温度を体感することも生のやりがいであり、それらを取り囲む空気と全体像をみることもまた、生にとって欠かすことのできない瞬間なのである。
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