2014.11.21   民間伝承 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

ある事象が起きるのは仏の教えでいう原因、心理学でいう目的があるという対立。

とにかく昨日の自分には戻りたくない。昨日の自分はもちろん、一週間前、一ヶ月前、半年前、一年前にも十年前にも戻りたくはない。例えば自分が心身ともに成長していないことがあからさまにわかっていても、決して今よりも過去の時間にもどるなんてことはしたくない。

自分には、時間の中で「煮込まれている」感覚が常にある。思考力が低下しようが体力が衰退していようが、時間とともに煮込まれるほど美しいものはないのである。渋さや熟成、経年変化といったところだろうか。例え学ぶことを妥協していたとしても、その何もしていなかった時間さえも、自分の成長の上では欠かせないものである感覚そのものが、自分のエネルギーの源となっているのである。

過去は美化されるといわれるように、記憶の中ではより美しい像と経験として満たされていく。しかしながら、あくまで記憶の話であり、それを突き詰めたところで心地よさが増す一方で、一向に自分にとっての歩きやすい先の道を舗装する役割を果たさない。それはなんともナンセンスな思考であり、ポジティブな未来思考と活力を随分と妨げる結果となる。

願わくはアドラー心理学の未来論を唱え続けるべきでありたい。事象が起きるのは何かしらの原因があるという仏の教えを絶えず信じているが、時にはアドラー心理学のように事象が起こりうる目的というのを見つめる捉え方もまた重要なようである。


槍の間合いもまだまだだな。