2017.01.17   民間伝承

教育とは自分が愛するものをどれだけ後世に伝えられるかに尽きる。

どれだけ自分がおいしいと思えるもののために自ら動けるのか、食べられるのか。そして、どれだけゆっくりと休息をとることができるのか。そんな動きと食事と休息の流れの中で、どれだけ自分が心地よいと思える温度を感じていられるのか。生きるということはほぼほぼそういうことなのだ。よく働き、よく食べ、よく眠る。そんなサイクルの繰り返しである。そして、自分が愛する風に空気に季節にと、そのすべてを次の世代へさりげなく引き継いでいくことである。そこれが教育であり、生命を与えられたものがなすべき使命である。

ツールではない、生きるコンテンツを生む。

スマホもパソコンもラジオもテレビも雑誌も本もあらゆるデザインのいずれも、すべてはツールにすぎない。とにかくこれらのツールはもはや生活の一部と成し、生活をする上では便利が面が非常に多い。しかしながら、いつだって大衆が待ち望んでいるものはツールそのものではなく、ツールによって生み出されるコンテンツである。あまりにツールがあふれるばかりに、コンテンツを創造する余韻さえも失いかけている、今宵。

娯楽いつだって生活をユニークに演出するものでありながら、ツールそのものを極めるには生命のエネルギーとの代償を常に交互させながら葛藤させる天秤のようである。

コンテンツをつくるとは?

ツールではなくコンテンツをつくるわけであるが、コンテンツってなんだと。写真やイラストの画像もそうだし、原稿やテキストでもそうである。それらのコンテンツをどれだけ磨いていけるかである。論理はいつだって豊富な創造を生み出すきっかけとなるが、伝えるためには理性を覗いたコンテンツにこそ秘めているものである。『考えるな、感じろ』とはよくいったもので、最もわかりやすいコンテンツを生み出す方法ではなかろうか。『考えるな、感じろ』である。


槍の間合いもまだまだだな。