2015.06.18   民間伝承 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

井の中の蛙大海を知らず、そこにある当たり前のものを美と思える蛙。

井の中の蛙は大海を知るべきか、はたまた井の中にある当たり前の日常から美となるものを感じとることが先決なのかという議論となる。そのような討論となると『井の中にある当たり前の日常から美』を感じるために井の中の蛙は今、大海を知るべきだということになる。よって大海を知ることが結論なわけではなく、ましてや井の中に留まることでもない。

しかしながらその行方は波のようである。どちらかの経験を経た上で、最終的な戦い方や判断はどちらかの見え方あるいは見えやすい方を常時重視してしまう傾向が多々あるようでもある。そもそも井の中という大きさ・心地よさが蛙によって違うものでもあり、ましてや『蛙の子は蛙』などという言葉をいつ何時であっても壊れたラジオ音声のように随時繰り返して発信してしまうような玩具とはこれまでの縁なのである。

大海を汚いバタ足で泳ぎ続ける蛙がいるのであれば、小さくて薄汚れてしまった井の中でより美しいフォームで平泳ぎをしようとする蛙を、ただひたすら生かすための戦い方とそのシナリオを描くことの方が先決であり、重宝すべき感覚なのである。

たとえ大海で美しいフォームで平泳ぎをする蛙がいても、誰がその波動を感じるものだ。井の中で汚いバタ足で泳ぎ続ける蛙がいても、誰がその蛙と共存したいと思えるものか。蛙が雨傘のためにクワズイモを持たなくてもよいではないか、美しい平泳ぎがあるのだから。


槍の間合いもまだまだだな。