2015.01.04   視覚表現 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

バウハウスから頂戴する「ないものねだり」という流行の歴史と循環

バウハウスという、無意識に聞き入れていれば単なる建造物なのか、あるいは単なる流行としての風習のひとつなのか、現代に誕生した我々にとってはもはやその言葉さえもあやふやな時代なのである。突然にも合理主義だの機能主義だのといわれても、そもそも現代において主義という言葉自体に馴染みがないものであるし、教育上において強調されることはないものであるから、一層親近感のない表現なのである。
そうもなると、例えば「そもそも合理主義とは何か?」と疑問に思うわけである。『合理=感覚・経験ではなく、理性・論理(辻褄)・合理性に依拠する態度。理性主義。慣習・伝統・常識に囚われず、効率的に目的を達成していこうとする態度。効率主義。』といった具合だ。要するにというには早いかもしれないが、バウハウスは当時の芸術家や建築家など様々な著名人をドイツに講師として集め、それまでの流行であった曲線や自然をモチーフとした装飾を生かしつつも、論理的なデザインに解いていこうとする学校、そして姿勢のようなものであると見解する。
私が教育上で学んだ記憶だと、かつてアール・ヌーヴォー(曲線)からアール・デコ(直線)の建造・家具へ流行は移り変わったという単調で簡易的な教育は受けたわけであるが、正直その時代背景や生活習慣などは全く強調されてはいなかったのではないかと感じている。単語としてその言葉を淡々と記憶していったわけである。
よくファッションを始め、その他紙媒体やメディアなど様々な分野における歴史というのも、循環されると言われている。曲線が流行ればいずれ直線が流行り、気がつけばまた曲線が流行する。世界中で戦争が勃発し、風土や精神が焼け野原となってしまえば、またゼロから装飾を始め、度が過ぎたころに質素なものに興味がわいてくる。循環という表現もうまいが、もっとよい表現をするとすれば「ないものねだり」なのである。
そのような意味では、現代においてはテレビからはじまりインターネットの普及もあり、あふれるほど情報が転がっているご時世だ。装飾するつもりはなくとも、大衆は視覚・聴覚などありとあらゆる感覚器官を通して精神は装飾され続けているまさに最中なのである。よって、質素だとかシンプルだという考え方は、デザインの歴史の流れからみてもこれからどんどん感じてくるという自然なことが起こりうるのであろう。これは一人物の感覚のなかで変化するものなのか、あるいは大衆全体の中で変化しながら流行して動き出すかはそれほど重要な問題ではなかろう。


槍の間合いもまだまだだな。