2014.12.01   視覚表現 ,,,,,,,,,,,,,,,

無意識であることは視覚表現を抑え、盲目がひだまりの意味を救っている。

ひだまりという言葉には、たったの1日や2日ばかり陽があたって暖まった場所なんかではなく、数年・数十年・数百年と長い年月をかけて形成されたほどの温かみを持つ響きがある。肝心なことは、その1日や2日という意味が感覚的な表現でしかなく、例え数年・数十年・数百年の経過を得ていたとしても、自らの感覚を信じて1日や2日と表現することでひだまりの温かみはより増すということなのである。

目に見えることだけが真実ではない。なぜなら、現代人にとって目の前で起きているすべてのことが二次的なものであるから。一次的な本質はみることはできない。人類の始まりを生きてきたわけではないのだから、受け継がれてきたわけではないのだから。二次的・三次的な空間の中で常に、視覚に捉えようとし、傷つき、悲しみ、そして喜んでいるのである。

第一、たとえ目の前にあるものが本質であったとしても、少しばかりの無意識であるだけで人間の視覚とは盲目となるのであるから。きっと私にもあなたにも、第三者にも一次的な事象をみることはできないのである。

それがなんだ、大きな事象のようで些細なことである。小雨が牛革のシミにならないように、些細なエネルギーなのである。シミにはならない、少しばかりの湿気で潤いと化している。湿気の最中の血筋を慰め、裂けそうな箇所さえも慰める。段取りのない順序に温かみを感じ、数字と番号をたよりに線をなぞるのである。


槍の間合いもまだまだだな。