2016.01.31   視覚表現

春のような雪解け水に、カラスは単独行動のフリをそつなくこなす。

たくさんの雪が降る度に、その翌日には決まって暖かくなる。真冬とはいえど雪解けが春を感じさせる日々が断続的に続いているのだ。河原の小鳥でさえも、春の訪れがきたと勘違いをしては雪解けの水たまりに顔を照らし合わせ、まだ春の訪れではないと夕日に向かって飛び立っていく。大雪であっても変わらず飛び交うカラスたちは、今日も最後の溜まり場を知っていながら、あたかも単独行動を好むかのようなフリを今日もそつなくこなしている。

橋の下は日陰となり、巨大な氷柱ができあがる。どうしても日陰になってしまうその橋の下は、これまで歩いた河川敷とは一風変わった景色を生み出している。今にも落ちてきそうなその巨大な氷柱は、ただ雪の足跡を辿るだけでは避けることのできない、動物の勘を働かせなければ通れない険しい道のりを派生させている。余談ではあるが、雪一面にもなると犬の小便はより一層際立つものである。

目の前に見えるのは、日陰でのこった橋の下の雪と氷柱。そしていつものように見かける老夫婦の散歩の風景のみである。時折夕日というものが、映像で観たことのあるかつての戦時中の空襲直後の空を連想させる。しかしながら、頭で夕日だとわかっている以上、戦時中を疑似体感することは不可能なものであり、イメージをすることだけに尽きる。何度戦争というものを映像や言葉でイメージしても、大概は「いざというときは戦わざる得ない」という、人間の本性を捨て払って向かっていくものなのである。要はその心理状態まで持ち運ばないことだけが『平和』への唯一のつながりである。

ただ、空と草木と遠い道のりを眺めては歩いている。それだけでいいのだ。夕日は毎日異なる色合いをしていて、小鳥たちはそれぞれ違う場所を羽ばたいている。ふと帰宅してトイレの壁を眺めると、同じはずの壁の模様さえも異なる感覚で目に映る。映像の世界でいう『クレショフ効果』のようなものだ。動的なものであってもあるいは静的なものであったとしても、二度と同じものというのは存在しないように、人間の視覚は日々を捉えている。ただそれだけである。


槍の間合いもまだまだだな。