2015.07.10   視覚表現

帰宅効果とは?行き慣れない場所は帰りより行くまでが長いと感じる帰宅効果

黒が好きだという理由から食べるようになったイカ墨も今はなきメニューとなり、私はただ途方に暮れている。大概『途方に暮れている』とつかえばどのような悪条件でもごまかしのきく用語となりうるので、個人的には非情に使い勝手がよい。

さて、先日あるニュースで『行きよりも帰りの方が早く感じる』ということについて、オランダの研究者が論理的に説明をする記事を見た。これに対しては私にも考えがあるので思わず言葉を挟まずにはいられない状況である。そもそも『行きよりも帰りの方が早く感じる』現象のことを『帰宅効果』として前々からその言葉と意味はあったようだ。帰りのルートというのは経験済みの道のりであるため、帰路の方が早く感じるのだという。今回のオランダの研究者によると、帰りを早く感じるのには、ほかに『行きの道のりを楽観視している』ことも理由としてあげているようだ。つまり、どこか往路の道のりを考えたときに、行きについてはその場所にたどり着くまでの道のりと時間をフルで心を構えたり期待をしたりして、帰りはふだん住み慣れている環境を目にしながら、もうすでにその場所に帰ってきたような感覚になっているということだ。これが帰宅効果というものだ。

結論、行きは『意識』で帰りは『無意識』

ここまでは私も同じような考えを持つのだが、私が考える帰宅効果はもっと単純だ。行きは『意識』であり、帰りは『無意識』であるということだ。例えば往路の目的地をある楽器として捉える。ものすごく広くて大きな空間で、しかも大勢の人々がその楽器の鳴る音を待ち望んでいる。自分の手を固定の位置からスタートしたとして、その楽器に手を伸ばして鳴らすまでが『行き』であり、その楽器を鳴らしたあとに手を固定の位置に戻すまでが『帰り』だとする。そうすると、音を鳴らすまではちょっとした緊張感があり、意識的に手を伸ばそうとする。よく緊張している時間は長く感じるというが、まさにこのことだ。音を鳴らした途端、目的の達成感にあふれ、手を固定の位置までもどすというのは無意識な感覚になりうる。さらにいえばその手をもどしている間にも音の余韻は響いているので、なおさら意識が音にとらわれ、時間そのものを短く感じるというものだ。

意識的な時間は長く、無意識な時間はあっという間である。それが私の考える帰宅効果の一理だ。


槍の間合いもまだまだだな。