2016.02.01   視覚表現

水さえも入っていない花瓶の天辺にあるのは、マスキングテープ。

一度たりとも水をいれたことのない花瓶が、今日もこちらをただぼんやりと見つめている。もちろん水を入れるつもりがなければ、一輪の花さえも飾るつもりもない。花瓶を、花瓶としてつかわなくてはならないという規則などないのである。
私はそんな花瓶の天辺に、マスキングテープを置いている。花瓶の天辺のフチに、ぴったりとマスキングテープの輪のサイズが合っているのである。sghrの水が入っていない花瓶は、今日もマスキングテープを頭に被りながらこっちを淡々と眺めている。

そもそもの話であるが、私は花については全くと言っていいほど詳しくはない。辛うじてタンポポがわかるくらいだろうか。はっきり言って小学校3年生の理科の教科書ででてくる知識以下であろう。花に対しては魅力を感じ、敬意も払っている。だがしかし、どうも顔と名前が一致しないとはこのことで、花に対する名前というのがでてこないわけである。これを言ってしまうと恐竜や動物でもそうなのだが、そもそもそれらの自然界から偶然生まれた美しいものに対して、人間が勝手に名付けたようなものを、どうしても覚えようという気にさせないのが私の脳のようである、誠に無念である。

物事の名前よりもその事象に興味がある。

だいぶそれらしいことを言ったが、思い返せば私はモノゴトの名前自体を覚えるのが苦手なのかもしれない。どれもそのモノゴトよりも、重要なのはそのモノゴトがどのような事象を起こすのかといった、動きを捉えているからであろう。例えば世にはロウソクというモノがある。さすがにロウソクであればモノをみた時点で「これはロウソクだ。」と名前まで思い浮かぶものだが、はっきり言ってそんな名前を覚えていることなど対して重要ではない。それよりも、その物体をどのように使うかの方が生きていくためには重要なことであり、そこでロウソクに火を灯して暗闇を照らすという知恵がなければ森林で野獣にでも喰われているかもわからない。

モノゴトの名前よりも、そのモノゴト自体が持つ性質を見極めること。そのあたりが明確にできていると、世の中の見え方はまたちょっと違う。


槍の間合いもまだまだだな。