2016.02.10   視覚表現

1円玉の存在感は思った以上に大きく、5円にもなればお賽銭箱に入れたくなる。

お釣りの計算が合わず、また1円玉だけが多くなってしまった最近。なんというか『塵も積もれば山となる』とはよくいうものであるが、正直なところ1円玉に関してはいくら積もっても100万円までは程遠いのではないかと少々疑いの目をもってしまう。たしかに塵も積もれば山であるが、その山はひょっとしたらあの大きな山のことではなく、小学校のときにグランド隅にあったもっと小さい『石山』のことではなかったのではないかと私は思っている。

とりあえず1円玉を重ねる。

前回の記事『小銭を重ねる理由とは?コーヒーと麦茶を一緒に飲みながら。』で、小銭が貯まってきたときは重ねて管理する方法をおすすめしたが、その通り今回も1円玉を机の上に重ねてみることにした。今回もよくこんなに1円玉が貯まったなと思いながら重ねてみると、意外なことが発覚する。なんと、たくさんあるように見えていた1円玉も、実際には5枚しかなかったことである。これではせいぜい5円玉1枚に両替するだけのものであるので、そのままお賽銭箱に入れてあげたいものだ。

1円玉は意外に多く見える?

これは今回発覚した視覚トリックのようなもので、財布の中に100円玉が入っている場合と1円玉が入っている場合では、例え同じ枚数であっても1円玉の方が多く感じてしまうという視覚的トリックである。前回は、100円玉が23枚入っているという驚異的な数字を生み出したが、今回の1円玉はたったの5枚。明らかに勘づくタイミングもおかしいわけであるが、そのくらい1円玉は多く感じてしまうわけである。

両替できる枚数のときにだけ多く感じる。

私の考えだと、小銭というのは結局のところ両替のできる枚数まで集まると多く感じるのではないかと考える。たとえば1円玉であれば5枚集まれば5円玉へと両替が可能である。つまり、1円玉が5枚以上にもなると途端に多く感じるのである。5円玉であれば2枚以上、10円玉であれば5枚以上、50円玉であれば2枚以上、そして100円玉であれば5枚以上である。
小銭をみた途端に、両替のできる金額に値することを頭で確認できると、人の頭は勝手に『もっと少なくできるぞ』という感覚が生まれてくるわけである。すなわち、今回の1円玉に関しては脳裏で『5円玉に変換できる』という思考が生まれた結果なわけである。この話にオチは全くないが、どうか神のご加護があらんことを、アーメン。


槍の間合いもまだまだだな。