2015.02.08   視覚表現 ,,,,,,,,,,,,,,,

木々という常があることで、桜が散るという無常に美を備えている。

あまりにも豊富なサブカルチャーと娯楽にあふれ、ふわふわとした優しさや抽象的な温かみは現代にとって今日、切っても切れないほど人々を惹きつけている。そしてその優しさは、少なくともかれこれここ数十年と解き放ち続けている。
しかしながらも、いつどんなときであっても物事の価値は戦争が基盤としてあるべきであり、過去何百年とまで遡らなくとも、数十年の争いについては常に意識すべき思考がないと、その時点ですぐさま生命の餌食となりゆる。
戦後教育を受けた世代の子のそのまた子、さらにはそのまた子の世代へと移り変わる今、戦争体験という基盤を完全にコピーをすることは不可能である。まして、戦後教育の象徴として発展したサブカルチャーは、その基盤をコピーしようとする伝承の要素を根こそぎ剥ぎ落としてしまうほどのエネルギーを常時兼ね備えている。例え作者がそのような意図でないことを重々承知していても、それを作者の意図通りに読み解くことはできない。それこそが世代の差という現実なのである。
かつてピカソは「想像できるものはすべて現実だ。」という言葉を残したが、その言葉をただ鵜呑みに良い言葉だと認識させる部分こそに、繋ぎたくても繋げない世代の煩わしさが膿のように滲み続けている。

サブカルチャーと表現することで、どこか日常生活を豊かにするための、日常生活に付随したおまけ要素のようなものにも感じとることもできる。しかしながら決してそんなことはない。漫画に音楽、テレビ、ラジオ、そして家具や雑貨も日常を豊かにしている反面、日々着々と確実に戦後という泥水を薄め、そして良くも悪くも庶民の感覚を嘲笑うかのように色鮮やかな印象で濁していくのである。

世は無常であれども、花を形成する木々そのものはほとんど常であることを勘違いしてはならない。木々というブレぬ基盤があるからこそ、無常たる花が美しく散ることができるのである。


槍の間合いもまだまだだな。