Illustration

点と線。それはたったひとつ描くだけで生命が生まれ、そのすべてが物語となる。イラストレーションとは、その物語を最もうまく表現した言葉なのかもしれない。点だけ、線だけ、点と点、線と線、点と線、線と点…そのようにして、ただひたすら点と線を結びつけて、重ねて、そしてまた話して描いていく。たったそれだけの単純な積み重ねは、いつしか予想にもしなかった模様のように描かれ、それでもなお動きをとどめることを知らない。

点と線を連ねて、動きを表現したとき『アニメーション』という魂が生まれるが、点と線というのは不思議なもので、静止していながらも動きを表現する物体にさえなりえる。生物によって描かれたその点と線は、まるで民間伝承をおこなうように、その媒体へと生命と躍動感が伝承されていくのである。イラストレーションとは、生物によって描かれていく物語、つまりは視覚化された民間伝承のようなものなのだ。

私は福島県会津若松市で生まれ、幼稚園に入園する前からよく、クレヨンや鉛筆を用いてアニメキャラクターの似顔絵を描き、壁に貼付けては自分だけのシーンを何度も描きながら物語をつくっていた。入園後は水彩や絵の具、立体の造形などにも興味を持ち、毎日のようにその素材を楽しみながら絵を描き続けていた。小学校入学前には福島県郡山市へ引っ越すことになるが、幼い自分にとって引っ越しという環境はそれほど大きな影響はなかった。とにかくクレヨンで画用紙に絵を描いては、一冊の自由帳をすぐさま描き潰し、また新しいたくがき帳へと手をすすめるのである。当時が私にとって、人生最大の大量消費の時代だったかもしれない。

学生時代を福島県郡山市で育った私にとって、最も刺激的であったのは、音楽とファッションであったように思う。これは郡山市という地域による直接的な影響ではなかったが、少なくともこの郡山で音楽やファッションに神経を費やすような人物というのは、ライフワークという重く輝く精神性を強く感じるものであった。それから数年後に私は再びイラストを描き、アニメーション制作、臨床美術、民俗学を学び始めることになるが、どれも基盤としては郡山で培った音楽とファッションの感覚が大きく影響しているように思う。

福島県は東日本大震災後、原子力発電所の爆発により世界からも一線をおくほどの被爆地域となった。私は、その被爆した福島県で生まれ、高校卒業までを過ごしてきた。福島原子力発電所の爆発当時は、大学在学中で宮城県仙台市にいたが、あのときの爆発映像はあまりにも非現実な映像で、いつまでたっても故郷で起きた大事件であるという実感がわくことはなかった。おそらく、原子力発電所の爆発というのは、生涯実感として得ることはできないのではないかと思えるくらいである。