2014.08.05   民間伝承 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

究極の着地点は葉月に付随した提灯が好ましい、日陰も添えて。

葉月となり、風と日陰に神拝みをしたくなるほどの猛暑ぶりである。自由に空調・温度の調整ができない時代でもないが、日本の四季を真面目に体感するためにはまだまだ猛暑も忍耐として捉えなければならない季節である。近所でも盆踊りの音楽が流れ、いくつもの灯りを照らす提灯が、子どもや親子を誘導するかのように飾り並んでいる。人間が古来暗闇を恐れ、火をおこしたということから、夏の夜長に提灯のある場所へ集っていく模様は正しく神秘的な行動であるように思う。同義反復ではないが『ダメなものはダメ』という教育はやたらと多いものである。一種の泥沼にはまったような靴を履いてきたと感じたときには、このような提灯の神秘的な誘導によって精神を浄化できるものなのだと体感している。

夏だから盆踊りや花火の美しさを感じとることができるのか。盆踊りや花火が美しいから夏が好ましいのか。この違いは大した問題ではないようで、実に同義反復によって鈍くなった感受性とメディア媒体による影響が強く関係しているように思う。日本の夏というのはとにかく猛暑であり、極端な話をすると炎天下で一日中何かしらの作業をしていれば生死の分け目にさえなるだろう。その生死の分かれ目である夏そのものを好むというのは、どうもおかしな話である。それでも我々が夏を好むと申し出る場合、大抵はその夏に付随する何かに惹かれ、その体験を基盤として四季の好みを判断していることは否めない。

その過去の体験であったり、季節に付随する何かを言葉や何かしらの形にすることではじめて、それが物語となり、理知という究極の着地点となるのであろう。トートロジー(同義反復)も三世代交流盆踊りも、繰り返されるということは何かしらの着地点があるようである。取り急ぎ、今のところ狂気性というのは保留である。


槍の間合いもまだまだだな。