2014.07.24   視覚表現 ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,

大量生産の最中にあるたったひとつだけの核を追求する。

なんとも『大量生産』という言葉自体が不愉快というか、製品でも生物でも大量は不気味に見えてくるものである。18世紀の産業革命でも大量生産による問題が検討され、アーツ&クラフツ運動といった芸術運動もあったほどだ。大量生産であるがゆえ、職人のこだわりも軽視され、中途半端な製品や精神が次々と生まれ、消費していくのだ。挙げ句の果てには、言葉や感情までもが消費されていくことだ。

これは時代というよりも、その需要と供給に応じて反発し、そして合致するような繰り返しなのであろう。利益や生産力向上のために大量生産を求めては、美を追求し、そしてまた生産性を求め続けて、美を失う。しかしながら、生産力を向上するのは大いに喜ぶべき技術である。問題は、生産過程の物語が失われることにある。

例えばそれら大量生産を、機械ではなく職人が大量に集まれば、またその製品への捉え方も変わり、親近感がわく。自分の揚げ足をとってしまえば例えそこに大量の職人が集まっても、職人が大量にいる時点でその技術の価値を見出せなくなりそうなほど、人間の視覚と記憶は疎かでか弱いものだということである。

とうもろこしの茎が折れても、多すぎる色彩をみても、美というのは常にある『一部分』にだけ存在している感覚である。そして今、ウェブは美を拡散するための『ツール』であることは間違いない。


槍の間合いもまだまだだな。